孤独な人は、全方位に優しさを求める

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たとえば、親は日常的に「百点とらなくたっていいのよ」と子供に脅しをかけている。本当は親は子供が「百点をとる」ことを願っている。そして百点をとらなければダメな子供と思われることを、子供は知っている。しかし親はそれを言わない。「百点とらなくたっていいのよ」という言葉に隠されたメッセージは「百点をとらなければ、ダメな子供」ということである。こんな親子関係の中で別離の脅しは子供の怒りを誘発するのである。


あるいは親は日常的に「勉強しなくたっていいのよ」と子供に脅しをかける。本当は親は子供が「勉強する」ことを願っている。勉強しない子供はダメな子供と思っている。しかし親はそれを言わない。子供はその親の気持ちを知っている。だから子供は怒りを感じる。「不安と怒り」を同時に誘発する場合には、もともとがこうした愛のない親による脅しなのである。こうした愛のない親子関係の中で、反対感情併存という重苦しい不幸は起きる。


「見捨てるというおどしは子どもを激しく怒らせるが、他方では、子どもが怒りを示すことによって実際にそのような行動を親に促す結果になるようであれば、子どもは決してその怒りを表わしはしない」。このようなボールビー博士の説明は、誰でも納得するであろう。


私も親に対して怒りを表わさなかった。見捨てられる不安からである。嫌われたくなかったからである。悪い子と思われたくなかったからである。しかしこのボールビー博士の言うことには、先に述べたような条件があるということを忘れてはならない。


なぜ親の言うことが脅しになるかということである。それは子供の側が自己不在だからである。その子は親に認められて初めて自分の存在を感じることができる。


親に褒められて初めて自分が生きていることに意味を感じることができる。自分で自分の人生に意味を感じる能力がない。だから親は脅しをかけられるのである。子供は親から認められることで自分の存在に意味を感じることができるということを頭に置いて、ボールビー博士の言葉を考えなければならない。


つまり愛情欲求が満たされない環境で育った人は、相手かいの優しさを強く求める。そして相手からの優しさを強く求めていればいるほど、この愛と憎しみの矛盾も激しいものになる。だから反対感情併存の苦しみは、親子関係ばかりではなく、恋人同士、配偶者間についても起きる心理状態である。ここでも注意をしなければならないことは、恋人に優しさを求めることと恋人が好きだということとは別である、ということである。孤独な人は誰かれかまわず優しさを求める。


好きであるかどうかは別にして、恋人に優しさを求める気持ちが強ければ強いほど、恋人の一つ一つの態度に喜んだり、傷ついたりする。そしてその傷が激しければ激しいほど、恋人を憎む。しかし憎む気持ちを表現できない。そして優しさを求める気持ちが強ければ強いほど、その恋人から離れられない。



花を愛している人は、花を観察する

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反対感情併存というのは、もともと愛情がない人々の間で起こりやすい感情矛盾なのである。愛情関係のない人々とはどういう人々であろうか。たとえば子供が風邪をひいた。すると親は子供を病院につれていって薬をもらってくる。それで終わりという親である。その後の子供の体調の変化に気がつかない。病院につれていった、薬をもらってきたという「かたち」で物事をすませる。そこに心があるかないかは、問題ではない。

それに対して愛情のある親は、その後の子供の病気の経過に重きをおく。いつも子供の体調を考えている。風邪の治り具合をいつも気にしている。そういう親は、病院から帰ってきても、子供の様子をいつも見守っている、そしてそれにあわせて食べ物を考え、それにあわせて氷枕の水を取りかえる。先生にどのようなものを食べさせたらいいのか、というような生活の指導を仰ぐ。

愛情が「かたち」だけというのは次のような場合である。病気の息子の部屋に入ってきて「どうだ?」と父親が聞く。父親は息子が健康になっていることを期待している。それを感じて息子は「はい、大丈夫です′」と答える。かたちとしては父親は息子の病気を心配している。しかし父親は息子の体の変化には気がついていない。息子は父親を恐れて「はい、大文夫です/」と言っているだけである。そのことに父親は気がつかない。

愛情のない親の元で育った子供は、今度は親が植物状態になれば、親を病院に入れて、お見舞いには行かなくなるだろう。お金を出してそれで終わりである。お金を出してそれで終わりという子供を育てたのは、その親なのである。こうした関係の中で、反対感情併存という感情矛盾が起きてくる。




愛情については、植物との関係で言うとわかりやすいかもしれない。花を咲かそうと、やたらに水をやる人は花を愛しているわけではない。花を愛している人は、まず花を観察する。花が何を求めているかを観察する。観察しながら水をやる、陽のあたる場所に花を移す。愛情とはそうした花と人との関係である。

反対感情併存に苦しむ人は、まず自分が生きてきた生活を考え直してみることである。自分がどういう質の人間関係の中で成長したかを考えてみることである。きっと愛情のない人々の間で生きてきたことに気がつくに違いない。そこから出発するしかない。

実はこう書いている私も反対感情併存に苦しんだ一人である。そして自分の過去を反省してみれば、周囲の人ばかりではなく私自身にも反省するべき点はたくさんあった。私はいつも満たされていなかった。だからいつも自分を満たしてくれる人を求めていた。すると近くなった人に要求が多くなる。そこから反対感情の矛盾に苦しみだす。



目的を持って生きている人は、人を恨まない

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ところで、恋人から離れられない、親から離れられないなどの執着をもう少し考えなければならない。相手から離れられないというと、相手を好きだと思ってしまう。しかし相手に執着するのは、相手が好きではないからである。

例をあげて考えてみよう。神経症者は自分から人を好きになることは少ない。相手から褒められて相手を好きになる。相手から「あなたが好きよノ」と言われる、そうしたことで相手を好きになっていく。そうしたことで相手とつき合いだす。神経症的な男は「あの女がいい」と思って、その女に自分から近づかない。女のほうから言い寄られてつき合いだす。そしてその女に執着する。

ある神経症的男性がある女性に手玉に取られた。その女性は「あなたは素敵な方」と男性を褒めつつ、その神経症的男性に近づいた。その男性は褒められたのと誘われたのとで、その気になった。デートの約束は女性のほうから仕掛けた。しかし最後のところで「いかがいたしましょう」と女性が言い、場所と時間は神経症的男性が決めた。ここで二人の関係は逆転してしまっている。

女性から誘ったのであるが、場所と時間を神経症的男性が決めたことで、その神経症的男性が誘った形になってしまった。誘われたのは女性のほうとなり、いつのまにか「責任とって」という形になっていく。女性が強い立場に立つ。会ってあげているというような恩着せがましさが女に出てくる。そうこうしているうちに男は適当に扱われ、捨てられそうになる。捨てられそうになると、男性は女性を追いかける。神経症的男性は女性にとっては遊びのためのいいカモであった。

神経症的な人は愛情飢餓感が強い。神経症的男性は愛されたいから次々に不誠実な女性に引っかかっていく。愛されたいから甘い言葉にふっと引っし力、めってぃく。

愛情飢餓感が強い神経症者は言葉に弱い。そして次々にトラブルを背負い込んで消耗していく。

自分の人生において、人間関係のもめ事が多い人は、反省する余地がある。つまり「私は愛情飢餓感が強いのではないか」と反省することが必要である。

神経症者は自分が好きで自分から相手に近づかないから、トラブルになっても相手を諦めきれない。相手にまとわりつく。執着するのは自分が相手を好きでないからである。

自分が好きで始めた恋愛なら、トラブルになれば諦める。相手から捨てられれば諦められる。しかし自分から求めたものでない時に、相手から捨てられれば諦めきれない。相手からうまく操作されて関係ができた時に、相手に執着するのである。

たとえば二つお餞頭があるとする。そして一つには毒が入っている。自分がどうしてもお慢頭を食べたくて食べたのであれば、毒のあるほうを食べても諦め継つく。しかし食べなさいと言われて、あるいは「あなたって勇気あるわね―」と煽てられて、そのお鰻頭を食べたとする。そして毒のあるお餞頭のほうを食べてしまって病気になれば、あの時に食べてなければと、毒のあるお餞頭のほうを食べたことを諦めきれない。そして自分に食べさせた人を恨む。執着と恨みはつながっている。

もう一つ別の例で考えてみよう。山に登りたくて山に登った。ところが怪我をした。この怪我は痛いが、諦めはつく。自分が登りたくて登ったのだから。体の傷は残っても、心の悩みとはならない。しかし登りたくない山を登ったとする。山登りというイメージに憧れたり、誘われたりして嫌々ながら山に登った。そこで怪我をした。すると誘った人を恨む。山登りというイメージに憧れて登ったことをいつまでも後悔する。

するとこの傷はなかなか諦めがつかない。この怪我をしなければと、長いこと山に登ったことを悔やむだろう。好きでないのにしたことで失敗をすれば、元に戻らないことをクヨクヨと悩む。こうして悩みを背負い込む人がいる。そうした人はたいていまた別の時に別の場所で別の悩みを背負い込む。そして苦悩に満ちた人生を送ることになる。

女が男を恨む時も同じである。男が適当なことを言って、女とセックスする。女は相手を好きになる。そして男は逃げ出す。こんな時に女は男を恨む。「執着と憎しみ」の併存である。「愛着と憎しみ」の併存というよりも、「執着と憎しみ」の併存である。



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