花を愛している人は、花を観察する

甘えの構造 | 記事URL


反対感情併存というのは、もともと愛情がない人々の間で起こりやすい感情矛盾なのである。愛情関係のない人々とはどういう人々であろうか。たとえば子供が風邪をひいた。すると親は子供を病院につれていって薬をもらってくる。それで終わりという親である。その後の子供の体調の変化に気がつかない。病院につれていった、薬をもらってきたという「かたち」で物事をすませる。そこに心があるかないかは、問題ではない。

それに対して愛情のある親は、その後の子供の病気の経過に重きをおく。いつも子供の体調を考えている。風邪の治り具合をいつも気にしている。そういう親は、病院から帰ってきても、子供の様子をいつも見守っている、そしてそれにあわせて食べ物を考え、それにあわせて氷枕の水を取りかえる。先生にどのようなものを食べさせたらいいのか、というような生活の指導を仰ぐ。

愛情が「かたち」だけというのは次のような場合である。病気の息子の部屋に入ってきて「どうだ?」と父親が聞く。父親は息子が健康になっていることを期待している。それを感じて息子は「はい、大丈夫です′」と答える。かたちとしては父親は息子の病気を心配している。しかし父親は息子の体の変化には気がついていない。息子は父親を恐れて「はい、大文夫です/」と言っているだけである。そのことに父親は気がつかない。

愛情のない親の元で育った子供は、今度は親が植物状態になれば、親を病院に入れて、お見舞いには行かなくなるだろう。お金を出してそれで終わりである。お金を出してそれで終わりという子供を育てたのは、その親なのである。こうした関係の中で、反対感情併存という感情矛盾が起きてくる。




愛情については、植物との関係で言うとわかりやすいかもしれない。花を咲かそうと、やたらに水をやる人は花を愛しているわけではない。花を愛している人は、まず花を観察する。花が何を求めているかを観察する。観察しながら水をやる、陽のあたる場所に花を移す。愛情とはそうした花と人との関係である。

反対感情併存に苦しむ人は、まず自分が生きてきた生活を考え直してみることである。自分がどういう質の人間関係の中で成長したかを考えてみることである。きっと愛情のない人々の間で生きてきたことに気がつくに違いない。そこから出発するしかない。

実はこう書いている私も反対感情併存に苦しんだ一人である。そして自分の過去を反省してみれば、周囲の人ばかりではなく私自身にも反省するべき点はたくさんあった。私はいつも満たされていなかった。だからいつも自分を満たしてくれる人を求めていた。すると近くなった人に要求が多くなる。そこから反対感情の矛盾に苦しみだす。



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