目的を持って生きている人は、人を恨まない

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ところで、恋人から離れられない、親から離れられないなどの執着をもう少し考えなければならない。相手から離れられないというと、相手を好きだと思ってしまう。しかし相手に執着するのは、相手が好きではないからである。

例をあげて考えてみよう。神経症者は自分から人を好きになることは少ない。相手から褒められて相手を好きになる。相手から「あなたが好きよノ」と言われる、そうしたことで相手を好きになっていく。そうしたことで相手とつき合いだす。神経症的な男は「あの女がいい」と思って、その女に自分から近づかない。女のほうから言い寄られてつき合いだす。そしてその女に執着する。

ある神経症的男性がある女性に手玉に取られた。その女性は「あなたは素敵な方」と男性を褒めつつ、その神経症的男性に近づいた。その男性は褒められたのと誘われたのとで、その気になった。デートの約束は女性のほうから仕掛けた。しかし最後のところで「いかがいたしましょう」と女性が言い、場所と時間は神経症的男性が決めた。ここで二人の関係は逆転してしまっている。

女性から誘ったのであるが、場所と時間を神経症的男性が決めたことで、その神経症的男性が誘った形になってしまった。誘われたのは女性のほうとなり、いつのまにか「責任とって」という形になっていく。女性が強い立場に立つ。会ってあげているというような恩着せがましさが女に出てくる。そうこうしているうちに男は適当に扱われ、捨てられそうになる。捨てられそうになると、男性は女性を追いかける。神経症的男性は女性にとっては遊びのためのいいカモであった。

神経症的な人は愛情飢餓感が強い。神経症的男性は愛されたいから次々に不誠実な女性に引っかかっていく。愛されたいから甘い言葉にふっと引っし力、めってぃく。

愛情飢餓感が強い神経症者は言葉に弱い。そして次々にトラブルを背負い込んで消耗していく。

自分の人生において、人間関係のもめ事が多い人は、反省する余地がある。つまり「私は愛情飢餓感が強いのではないか」と反省することが必要である。

神経症者は自分が好きで自分から相手に近づかないから、トラブルになっても相手を諦めきれない。相手にまとわりつく。執着するのは自分が相手を好きでないからである。

自分が好きで始めた恋愛なら、トラブルになれば諦める。相手から捨てられれば諦められる。しかし自分から求めたものでない時に、相手から捨てられれば諦めきれない。相手からうまく操作されて関係ができた時に、相手に執着するのである。

たとえば二つお餞頭があるとする。そして一つには毒が入っている。自分がどうしてもお慢頭を食べたくて食べたのであれば、毒のあるほうを食べても諦め継つく。しかし食べなさいと言われて、あるいは「あなたって勇気あるわね―」と煽てられて、そのお鰻頭を食べたとする。そして毒のあるお餞頭のほうを食べてしまって病気になれば、あの時に食べてなければと、毒のあるお餞頭のほうを食べたことを諦めきれない。そして自分に食べさせた人を恨む。執着と恨みはつながっている。

もう一つ別の例で考えてみよう。山に登りたくて山に登った。ところが怪我をした。この怪我は痛いが、諦めはつく。自分が登りたくて登ったのだから。体の傷は残っても、心の悩みとはならない。しかし登りたくない山を登ったとする。山登りというイメージに憧れたり、誘われたりして嫌々ながら山に登った。そこで怪我をした。すると誘った人を恨む。山登りというイメージに憧れて登ったことをいつまでも後悔する。

するとこの傷はなかなか諦めがつかない。この怪我をしなければと、長いこと山に登ったことを悔やむだろう。好きでないのにしたことで失敗をすれば、元に戻らないことをクヨクヨと悩む。こうして悩みを背負い込む人がいる。そうした人はたいていまた別の時に別の場所で別の悩みを背負い込む。そして苦悩に満ちた人生を送ることになる。

女が男を恨む時も同じである。男が適当なことを言って、女とセックスする。女は相手を好きになる。そして男は逃げ出す。こんな時に女は男を恨む。「執着と憎しみ」の併存である。「愛着と憎しみ」の併存というよりも、「執着と憎しみ」の併存である。



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