大学が、それぞれに敗戦の混乱から立ち直る努力を続ける中で、占領政策は、初期の非軍国主義化のための強権発動から、民主化のための積極的な施策へと重点を移してくる。昭和21(1946)年1月9日、総司令部は日本政府に対し「日本教育家ノ委員会二関スル件」
と題する覚書を発した。この覚書は、日本の教育システムについて研究し、技術上の事項について最高司令官と文部省に対し助言する教育使節団の派遣を米国政府に要請したことを明らかにし、使節団に協力するため「日本教育家ノ委員会」を文部省が任命することを求めたものである。
教育使節団の任務として、覚書は四つの問題を挙げている。すなわち、
A 「日本における民主主義教育」……学科日、学科課程、教科書等
B 「日本の再教育の心理的側面」……教育方法、言語改革、教員再教育等
C 「日本教育制度、行政的再編成」……文部省の再編成、地方分権問題等
D 「日本復興に於ける高等教育」……図書館等利用、学生・教職員の自由、社会科学の再出発等
いずれも、学校教育の内容面あるいは教育行政の刷新に関することであり、学校体系の変革に関する言及は、いっさい見当たらない。
覚書が出された直後に第一高等学校長から就任した安倍能成文部大臣は、戦争中に一年短縮された高等学校(旧制)の修業年限をもとに戻すことを就任の抱負として語り、教育使節団の来日を前にしてこれを実現している。総司令部もそれを承認したわけであるから、この時点では文部省はもちろん、総司令部にも学制改革の意思は見られない。
覚書を受けた文部省では、2月7日に南原繁東京帝国大学総長を委員長とする二九人の委員からなる委員会を発足させた。委員選任の過程で、2月2日にいつたん任命された委員のうち、文部省関係者など七人の委員が差し替えられ、戦前の教育改革同志会のメンバーが加わるという波瀾があったが、それが後に学校体系の変革に大きな影響を及ぼすことになる。
教育使節団は、米国国務省が人選に当たり、ニューヨーク州教育長官ジョージ・D ・ストツダードを委員長とし、大学関係者、教育行政関係者等二七人からなる教育使節団を編成した。使節団は3月7日から日本における公式日程を開始し、同月30日には報告書を完成して総司令部に提出した。総司令部は、4月7日にマッカーサー最高司令官の声明を付してこれを公表した。これが占領下の教育改革においてバイブル視された、米国教育使節団報告書である。
使節団は、総司令部から期待された任務を超えて、学校体系の改革をも取り上げた。初等教育を卒業した者を受け入れる学校を一つの制度に統合する観点から、国民学校(小学校)高等科、中学校、女学校、実業学校等、複雑に分化していた各種の中等教育機関を、三年の「初級中学校」とそれに続く三年の「上級中学校」に整理し、「初級中学校」までを義務教育とすることを報告書で勧告した。六二二・三制の学校体系の提言である。
しかし、高等教育の学校体系については、現状維持を前提として、高等教育を「少数者のための特権から多くの人々に開かれた機会」とするための諸方策を提言するにとどめていた。
教育使節団の勧告を受けて日本政府は、教育改革を進めるため、「教育刷新委員会官制」(昭和21年8月10日勅令第三七三号)を定め、総理大臣の所轄の下に「教育に関する重要事項を調査審議するため」教育刷新委員会を設けた。
日本教育家委員会の設置を求めた総司令部の覚書では、「将来この委員会が実業界等からの委員を加えて日本教育の革新につき文部省に建言すべき常任委員会たるべきこと」を要請していたが、教育刷新委員会はこの要請に沿つてつくられたものと考えられる。総司令部のオア教育課長の言葉を借りれば、「日本側教育家委員会はまもなく内閣レベルにまで引き上げられて、その名称も教育刷新委員会と改められた」ということになる。
刷新委員会発足当初の38人の委員中、日本側教育家委員会の委員だった者が19人を占めており、日本教育家委員会との連続性は明らかである。委員長には互選の結果、安倍能成前文相が選ばれ、日本教育家委員会の委員長であった南原東京帝大総長は副委員長となっ渇。なお、南原総長は翌32年11月に、委員長に就任している。
