我が国の高等教育の学校体系は、専門学校令(明治36年勅令61号)の制定と大学令(大正7年勅令388号)および高等学校令(大正7年勅令386号)の制定により、基本的な骨格を完成し、以後、戦争末期の年限短縮などを除いては、敗戦まで大きな変化はなかった。当時の学校体系を実感していただくため、多くの読者を持つ井上靖氏の自伝的小説、『夏草冬濤』と『北の海』を手がかりに使わせていただくことにする。
『夏草冬濤』は、作者の分身である洪作の沼津中学時代を描いている。両親と離れ、三島の伯母の家から学校に通っていた洪作が、中学三年の冬休みに故郷の湯ヶ島に帰る。小学校で同級生だった春助を見かけて、懐かしさに声をかけるが無視される。近づいた洪作に春助はいう。「俺、洪ちやんなどと口をきく身分じやないよ。お前は中学生だろう。中学をでたら、もっと上の学校へ行くだろう。俺、小学校の尋常科を出ただけだ。高等科へも行かなかった」。
洪作が、成績が下がって、勉強不足だったと落ち込んでいると、伯母さんから、自分の子の俊記よりずっと勉強していると慰められる。「較べる相手が悪いと洪作は思った。実際に俊記は勉強しなかったが、勉強しなくても、商業学校の方は、結構それで何とかやつていけるらしかった」。
洪作は、また、遠縁の親類の家に挨拶に行かされて、女学校一年の蘭子という早熟な美少女に出会う。
これらのエピソードから、義務教育である尋常小学校(春助は小学校の尋常科、高等科といっているが、制度的には、尋常小学校〔六年制〕、高等小学校〔二年制〕である。なお、昭和38〔1941〕年から国民学校初等科、高等科と改められた)卒業後、春助のようにそのまま仕事に就く者、あと二年高等小学校に通う者、俊記のように商業学校に行く者、蘭子のように高等女学校に進む者、そして、洪作のように中学校に進学する者に分かれることがわかる。
春助のいうように、さらに上の学校を目指す者は洪作のように中学校(五年制)に進んだ。父を亡くし産婆の母の手一つで育てられている通学仲間の増田は、四年になってから、ひどくガリ勉になる。
成績の落ちた洪作が、勉強のため沼津の寺に下宿することになったと告げると、「そうか、それはいいことだ。お互いに勉強しよう。俺は四年から静高に入ってやるつもりだ。兄貴の復讐戦だからな」という。「増田の兄さんは英語の辞書のページを、ちぎつては食べ、ちぎっては食べるほど英語を暗記したが、やはりこの春一高の受験に失敗し、第二志望の私立大学の医学部にはいつていた」。
静高とは静岡高等学校、一高とは第一高等学校のことである(占領下の改革で、静高は静岡大学の文理学部となり、一高は東京大学の教養学部となった)。増田が静高を目指すということは、帝国大学を目指すことを意味していた。
帝国大学は、明治政府が、西洋文明の輸入と近代国家建設の人材養成の拠点として創設したもので、大学令制定以前は大学の地位を独占していた。現在の東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、大阪大学、名古屋大学の前身がそれである。高等学校は、制度的には高等普通教育を完成させる学校として位置づけられていたが、沿革的には帝国大学の予科であり、実質的にはその性格を持ち続けていた。
それを制度的に支えていたのが、当時の大学入学制度である。大学入学資格は、高等学校高等科卒業者、当該大学の予科修了者、文部大臣の認可を受けて各大学が認める者の三種類に分けられていたが(大学令9条)、各大学はそれぞれの資格に入学の優先順位をつけることを認められていた(大学規程〔大正8年文部省令11号〕7条)。各帝国大学は予科を置かず、高等学校卒業者を第一順位にしていたから、高等学校は実質的には、各帝国大学共通の予科だったのである。帝国大学の入学者総数と高等学校の卒業者総数はほぼ見合っていたから、高等学校に入ることは、大学や学部を選り好みしなければ、帝国大学のどこかには入れることを意味していた。
増田が、静高に四年から入ると意気込んでいるのは、中学卒業を待たず、四年修了の時点で、高等学校高等科受験が認められていたからである。制度的には、高等学校は尋常科四年、高等科三年の七年制で、尋常小学校卒業生を受け入れる七年制の公私立高校も少数設置されていたが、多数を占める官立の高校は高等科だけであった。
増田の兄さんは、私立大学の医学部に進んだとあるが、正確にはその予科であろう。帝大以外の大学に進むには、通常その大学の予科に進学することになるからである。予科では、高等学校程度の高等普通教育を行うことになっていた。
中学校から進む上の学校には、大学につながる高等学校、大学予科のほかに専門学校(三年制)があり、量的にははるかにその方が多かった。専門学校への道は中学校だけではない。俊記のような商業学校、工業学校、農業学校などの実業学校の生徒も卒業後、専門学校に進むことが可能であった。
専門学校というのは、中学校、高等女学校、実業学校の卒業生を受け入れて専門教育を行う学校の総称であり、高等商業、高等工業などの実業専門学校のほか、宗教系、法学系、医歯薬系など多様な学校があった。私立大学の多くは、専門学校を専門部のかたちで付設し、経営の基盤としていた。
高等女学校は、男子の中学校に相当する女子の学校であるが、女子には、高等学校あるいは大学予科を経て大学に進む道は閉ざされていた。高等女学校の卒業生が上の学校を希望する場合には、津田塾専門学校、日本女子大学校などの女子専門学校に進むか、あるいは、師範学校や高等女学校の教員を目指して、尋常師範学校本科第二部経由で、東京と奈良の女子高等師範学校に進むしかなかった。
なお、師範学校は、高等小学校卒業生が上級学校に進む唯一の道であった。
『夏草冬濤』に続く作品は『北の海』である。洪作自身は、中学四年修了時と卒業時に静岡高校を三度受験して落ちていた。遊び友達もそれぞれ、静高や一高を落ちたが、東京や京都の私立大学の予科に進んだ。洪作は何となくそんな気持ちになれず、母校の柔道場に顔を出しながらぶらぶらしているうちに、四高の柔道部から来た蓮見に出会う。「練習量がすべてを決定する柔道」という蓮見の言葉に感動した洪作は、四高柔道部の稽古を見に金沢に行く。金沢での四高柔道部の人々に魅せられて、洪作は真剣に受験勉強を決意する。洪作を海岸に連れ出した柔道部の仲間たちが、日本海に向かって、「ああ幽冥の霧はれて潮騒冴ゆる北の海」と寮歌を歌う情景は、旧制高校の持つ魅力の一面を象徴している。
多感な時期に受験勉強から解放され、友人との交流の中で自己を形成した旧制高校時代を、多くの人々が懐かしむのも理解できる。大学の予科時代を懐かしむ人の多いのも同じような思い出からであろう。
井上靖氏自身は、氏の『青春放浪』によれば、四高の理科に進んで柔道に打ち込む。理科系に向かないと感じた氏は、理科の卒業生も受け入れた九州帝大の法文学部に進み、京都帝大の哲学科に転ずる。毎日新聞社に就職後、本腰で美学の勉強をしようと京都帝大の大学院に籍を置くが、戦争で軍に召集される。
当時の大学は、旧制高校や大学予科において、学力面でも、人間的にも、 一応自己形成をしてきたいわば「大人」を学生として受け入れ、教授陣は、専門の教授・研究に専念していたのである。
