現在の日本の大学の基本的な枠組みは、太平洋戦争敗戦後、占領軍の間接統治下という特殊な状況下で形成された。日本の大学が現在抱えている問題の多くは、そこに起因する。占領下の高等教育改革。大学改革は、二つの要素から成り立っている。

一つは、学校体系を単純化し、旧制の大学、専門学校、高等学校、師範学校等の高等教育諸機関をすべて一律に四年制の新制大学に一元化したこと。

もう一つは、当時日本の大学がまったくといっていいほどなじみのなかった一般教育、単位制、課程制大学院、アクレデイテーションなどの米国モデルを、似て非なるかたちで一律に強制したことである。

この改革により、明治以来形成されてきた日本の大学・高等教育システムは、激変にさらされることになった。敗戦等により他国の支配下に置かれた国は数多いが、植民地化された場合は別として、一国の精神的支柱である大学が、このように根本的な変革を受けたことは、ほかに例を見ない。

しかも、問題はその変革を推進した主体や変革の過程が不明瞭なことである。これだけの大変革を、誰が、どのような過程で、どのような決断をし推進したのか、その多くは霧に包まれている。

その主な原因は、日本政府を間接統治下においた占領軍が、占領政策を、一方では日本政府を通じて、他方では日本側関係者の「自主的」動きを指導。支援して遂行するという手のこんだ手法をとつたことによる。それは、結果として責任者不在の改革となり、占領軍を含めて、誰もが望まず、誰もが不満な大学を生み出すことになった。以後、日本の大学はその後遺症に悩まされ続け、大学改革が口にされないときはなかった。

占領下の改革が、高等教育を「少数の人たちの特権から多数の人たちの機会」にすることに大きく貢献したことは、高く評価すべきであるし、それが、大学・高等教育の大衆化の枠組みを先取りした意義も、認めなければならない。しかし、だからといつて、日本の事情を無視した拙速強引な改革により、日本の大学・高等教育を混乱させ、現在にいたる大学の混迷を招く主因となったことを、免責していいはずはない。機会均等、民主化の名の下に占領下の大学改革をすべて美化し、それがもたらした負の部分に目をつぶつていては、日本の大学はいつまでも米国の大学の亜流であり、そのできの悪い生徒というだけの存在にしかなれない。

昭和20(1945)年8月14日のポツダム宣言受諾と9月3日の米戦艦ミズリー号艦上での降伏文書調印により、日本は米国を中心とする連合国軍に降伏し、史上初めて外国軍隊の占領下に置かれることとなった。

日本占領にあたる連合国軍最高司令官が、降伏条項実施のための一切の権力を持つことになり、日本政府は最高司令官の指示の下に通常の政治機能を行使することを許されるだけの存在となった。占領軍による日本の間接統治の開始である。

最高司令官には、アメリカ太平洋陸軍総司令官ダグラス・マッカーサー元帥が任命され、10月2日には、東京・丸の内に総司令部が設けられて、占領政策が開始された。占領政策の基本は、ポツダム宣言の基本条件ともいうべき日本の非軍国主義化と民主化である。

総司令部の最優先の課題は、まず、戦争遂行に積極的役割を果たした日本の軍国主義指導者とその影響力を一掃することであった。占領開始直後の9月から戦争犯罪人容疑者の指定が始まり、翌21年の年明け早々、望ましからぬ人物を公職より罷免排除する総司令部の覚書が発せられ、軍国主義指導者と目された人々の公職追放が開始された。

敗戦時の文部大臣橋田邦彦は、戦犯容疑者として総司令部からの呼び出しを受けて服毒自殺し、かつてニューヨークの日本文化館長を務め、敗戦直後の東久迩、幣原両内閣で文教を担った前田多門文相も、大政翼賛会地方支部長の経歴が公職追放の要件に該当するおそれがあつて、辞任を余儀なくされた。

思想面で重大な影響力を持つ教育界に対しては、公職追放に先んじて軍国主義排除の措置が開始されていた。20年10月22日、「日本教育制度二対スル管理政策」、同30日、「教育及ビ教育関係官ノ調査、除外、認可二関スル件」の覚書が総司令部から相次いで発せられた。その中心は、教育内容からの軍国主義・超国家主義の除去と、軍国主義者・超国家主義者等の教職・教育関係公職からの追放、そして、自由主義的または反軍的言動のため、学園を追われた教師等の優先的な復職であった。

軍国主義者と目される教員等の罷免のための審査が日本政府により組織的・全面的に行われるのは、いわゆる「教職追放令」が翌21年5月7日に制定されてからのことであるが、占領初期の時点から、総司令部では個別の情報に基づいて、特定の人物を狙い撃ちで学園から追放していた。

最も早い事例を挙げれば、占領直後の9月11日、立教学院に戦前立教大学教授であった米軍将校が来校し、礼拝堂の整備不良などについて大学総長など学院幹部を問責した。次いで10月24日に総司令部の覚書が出され、キリスト教の礼拝儀式や教義の教授を廃止したことなどを理由に、総長以下11名の追放を日本政府に指示している。

このような状況の中で、日本の大学は戦後を歩み始めた。戦争末期、高学年の学生は「学徒出陣」で軍隊に、低学年の学生は「学徒動員」で工場などに動員され、相次ぐ空襲で多くの校合は焼かれ、大学はほとんどその機能を停止していた。

敗戦により、学生は次々と荒廃した学園に戻つてきた。学徒出陣で特別攻撃隊員となり、山形県の真室川で訓練を受けていた石川忠雄前慶應義塾長は、「私は帰宅後数日して三田の山へでかけました。幻の間を通って赤煉瓦のあの図書館の塔を見上げたとき、私は『ああ生きて還ってこれた』という思いに胸がつまり、思わず涙がこみ上げてきたことをはつきり憶えています」と語っている。

しかし、ついに学園に帰れなかった学生、教職員も少なくなかった。敗戦後東京帝国大学総長に就任した南原繁総長は、昭和21(1946)年3月30日、東京帝国大学戦没職員学徒慰霊祭において、帰らざる学徒職員の霊にこう語りかけている。

「戦終って何処からともなく集まりきた我らの仲間、われわれはいかに喜び迎えたことであろう。

諸君と同じく肩をならべて出征した戦友の恐らくは死するに勝る恥を忍んで還り来たったのも、一にこれからの新たな戦い――大学の復興と祖国再建の事業に参加せんがためである。今はほとんどそのすべてが還り来たった中に、幾多俊秀のついに再びいずれの教室にも研究室に見出し得ぬことは、我らの限りなき痛恨である」。

学生が再び学園に帰ってくる中で、前述の総司令部覚書を背景に、かつて自由主義的あるいは社会主義的思想のゆえに講壇を追われた教授たちが、次々と大学に帰ってくる。

京都帝国大学では、昭和八(1933)年の「滝川事件」の主役、滝川幸辰教授と、同教授の休職処分に抗議して大学を去った多くの教授、助教授が法学部に復帰し、大学に残留していた教授が退陣する。また、「河上肇辞職事件」の責任問題から経済学部教官がいったん総辞職する。東京帝国大学では、「平賀粛学」で大学を追われた大内兵衛、失内原忠雄など七人の教授が経済学部に復帰する一方、対立関係にあった教授、助教授が辞任す召。多くの大学で類似の教授陣の再編成が進行し、学園の空気は大きく変わっていく。食糧難にあえぎ、施設、設備の荒廃に悩みながらも、大学はしだいに活気を取り戻していった。

この時点では、日本の大学を根底から変化させる学制改革がやがて始まることを、ほとんどの大学人は考えさえしていなかった。